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境界問題相談センター
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豆知識コラム
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■ 第3回目コラム


1.道頓堀川とは

 「道頓堀川」(道頓堀川訴訟)(交通新聞社・田中 貞和著)という本には、大阪ミナミの繁華街を流れる道頓堀川と土地の所有権にまつわる歴史的に興味深い話が書かれています。
 16世紀の後半、豊臣秀吉による天下統一によって、大坂は彼が築いた大坂城を中心に、淀川や大和川を利用して縦横に数多くの運河が掘られ、沿岸地域の開発と町の繁栄に寄与しました。
 17世紀になって徳川幕府が開かれてからも、引き続き大坂は「天下の台所」として全国的な経済・物流の中心でした。当時は舟運が物資の主な輸送手段で、たくさんの舟が運河を行き交う情景を思い描くことができます。
 かつては、大阪市内に東横堀川、西横堀川、江戸堀川、長堀川、道頓堀川等多くの河川が流れ、「水の都」といわれていましたが、これらは豊臣政権下や江戸時代前期に運河として人工的に掘削されてできた河川です。そのなかでも道頓堀川は、大阪ミナミの歓楽街を東西に流れる川として有名であり、その夜景は、両岸の華やかなネオンが川面に映る都会の風物として、映画やマスコミにもしばしば紹介されました。(注:「大坂」が「大阪」と表記されるようになったのは明治維新以後のことです。)

2.道頓堀川の名称の由来

 この川(運河)の名称の由来をご存じでしょうか?安井道頓が、慶長17年(1612年)河州久宝寺村(河内国・現在の八尾市)の豪族安井冶兵衛とその弟、安井道朴(初代安井九兵衛)、親族平野藤次(郎)らと、梅津川という小川を拡幅する工事をしてできた運河が道頓堀川です。道頓は父定次とともに、秀吉に仕えた土木家といわれています。安井冶兵衛は着工翌年に病死し、大坂の役で豊臣方についていた道頓も元和元年(1615年)、大坂夏の陣で、豊臣氏滅亡前日の5月7日に大坂城内で死亡しました。
 大坂の役後、炎上・落城した大坂城の初代城主である松平忠明は大坂復興の一環として平野藤次、安井道朴らに、この掘削途中の堀川の工事を完了することと沿岸の開発を促しました。そして元和元年11月、堀川を完工しました。この堀川は当初、南堀川と呼ばれていましたが、松平忠明が安井九兵衛らの口上に基づき、死亡した道頓の名が後世に残るようにと「道頓堀川」と命名し、以後呼称されるようになりました。司馬遼太郎の短編集「最後の伊賀者」に収録されている「けろりの道頓」の中に、「忠明の命名は当時、非常な英断とされた」、そして「道頓は乱に与した叛徒の名だが、江戸から来た忠明にすれば、大坂町人の人気を得るためには彼の名を川に命名することがいちばん効果的だと考えたのであろうか」、という趣旨の記述があります。

3.道頓堀川訴訟とは

 いわゆる「道頓堀川訴訟」とは、昭和40年1月から昭和51年10月まで11年余の歳月をかけて大阪地裁で争われた事件です。この訴訟は安井道朴(初代安井九兵衛)から12代目に当たる安井氏(大阪市天王寺区在住)が、道頓堀川の敷地(底地)に個人として所有権を有すると主張し、国・大阪府・大阪市を被告として、同敷地の所有権確認等の民事訴訟を提起したものです。この訴訟については、昭和41年2月11日に言い渡された仮処分判決と、昭和51年10月19日に言い渡された最終的な本案判決があります。これら訴訟の判決は、理論的な面で、近代的土地所有権制度確立前における種々の態様の土地支配を、現代の法制のもとでどのように評価し、近代的土地所有権との関連をどう考えるべきなのか、を提起しています。
 安井氏は、先祖の道頓が秀吉から拝領した土地に、道頓堀川を掘削したこと等を川敷地所有権の1つの根拠にしていたので、拝領当時の土地所有権がどのようなものであり、現在の民法に基づく土地所有権と同一といえるのかどうかが問題でした。

贈従五位安井道頓安井道朴紀功碑
道頓堀川の日本橋の北詰にある、「贈従五位安井道頓安井道朴紀功碑」。
 
贈従五位安井道頓安井道朴紀功碑
石碑には道頓と父定次が秀吉から土地を下賜された旨が記載されています。

 裁判制度は、裁判官が法律というルールに則って行います。この「道頓堀川訴訟」のように訴えを提起してから判決が下りるまで長期に渡ることも稀ではありません。他方、民間型ADRは、ルールや解決案は当事者が、第三者の助けを借りながら決めるもので、柔軟かつ安価、問題の解決に向けて当事者の自主的な話し合いと互譲の努力により、比較的短時間で済みます。「境界問題相談センターおおさか」は民間型ADRシステムのひとつとして、土地の境界に関する紛争の解決のために、相談や調停を行っています。

4.豊臣・江戸時代の土地所有権

 明治に至るまで、武家屋敷、町人地、百姓地等、民有的な性質をもった土地は存在しましたが、領民の土地に対する支配権は、現実の使用、用益と結びついた具体的支配を意味し、幕府や封建領主の土地領有の下にあったという大前提があり、種々の負担、制限が加わっていた点で領民個々の土地支配が現在のような絶対的な土地所有権に基づくものではなかったことは明らかです。
  昭和51年10月19日、道頓堀川訴訟での本案判決では、この幕府や封建領主の土地領有関係を「領知権」と認定しています。この領知権はもっぱら公的性格のもので、年貢取立権、領民に対する立法・司法・行政の各権限を含み、他方、領民には土地所持権という土地を現実に所持し、支配し、使用収益する権利が認められていました。しかし、第三者に対する絶対性は必ずしも保障されているわけではありませんでした。また、検地帳に記載された高請田畑の場合の高請人と土地の小作人、田畑の所持者が田畑を質入れした場合、質取者と質入者というように、同一土地に複数の所持権が成立し、一方の所持権が観念的なこともあり得ました。さらに当然のことながら、種々の封建的制約が付随していて、代表的なものでは、検地帳記載の田畑の永代売買禁止や町人所持の町地も拝領地、拝借地に譲渡制限があったこと等があげられます。

5.明治政府の地租改正事業

 現在の絶対的かつ排他的な近代的土地所有権制度は、明治政府の地租改正事業を経る過程で確立したといわれています。その事業の経緯は次のとおりです。

@ 明治元年(1868年)12月8日
封建領主の土地領有を廃止し、百姓所持の原則を宣言する。(太政官布告第1096号)
A 明治4年(1871年)9月4日
土地に付着していた封建的制限を解消し、田畑勝手作を許す。(大蔵省達47号)
B 明治4年(1871年)12月27日
地租改正の準備段階措置として、東京府の市街地に地券の発行を命じた。次に他の2府及び大都市に市街地地券を発行した。(太政官布告第682号)
C 明治5年(1872年)2月15日
田畑永代売買と所持を士農工商の四民に許可し、土地に対する封建的諸制限を撤廃する。(太政官布告第50号)
D 明治5年(1872年)2月24日
「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」により、郡村で地券を発行する。(大蔵省達第25号)
E 明治5年(1872年)7月4日
「持地地券渡方」により、全国一般の私有土地全部に地券を発行することにする。壬申地券といわれる。(大蔵省達第83号)
F 明治6年(1873年)3月25日
「地所名称区別」により、各種の土地にその種別を定め、それぞれに地券発行の要否を規定する。(太政官布告第114号)
G 明治7年(1874年)11月7日
「地所名称区別改定」により、前記Eの布告を改正し、全体の土地を官有地と民有地の2種に大別し、そのうち官有地を4種に、民有地を3種に細分した。(太政官布告第120号)

 これら明治政府の地租改正事業が、明治6年から明治14年にかけて全国的 な規模で行われ、これによって全国の民有地が丈量され、個別に地価が決定され、地主に地券が交付され、あわせて地租が賦課されることになりました。
 また、前記BCDの地券の発行によって、複雑な封建時代の土地に関する権利関係を解消し、一土地一地主の原則で簡明にして、土地に対する私権を公認し、処分の自由を保障しました。この地租改正事業での地権者の決定は、いちおう旧来の検地帳、名寄帳を照合する等の方法で、従来の土地支配をそのまま踏襲してなされたとみられます。

6.明治維新後の道頓堀川

 明治維新後、道頓堀川は大阪府が管理し、明治18年(1885年)2月以降は水路取締規則に基づいて管理しました。昭和20年4月1日、大阪府知事が準用河川の使用や占用許可権を大阪市長に委嘱しました。昭和32年4月の準用河川の認定解除後は、大阪市が市の普通河川管理条例に基づいて維持管理を続けてきました。

7.道頓堀川訴訟の提起

 安井道朴の12代目に当たる安井氏は、昭和40年1月12日、国・大阪府・大阪市を被告として大阪地裁に「道頓堀川河川敷地所有権確認」請求の民事訴訟を提起しました。昭和40年は、わが国は好調な経済発展を遂げていた時期であり、道頓堀川も昭和30年代から国内の他の河川のように両岸の店舗からの生活排水、汚水等の流入で水質が悪化し、悪臭を放つドブ川のようになって社会問題化していました。当時、道頓堀川を管理していた大阪市は、このドブ川のような河川の改修を計画し、地元住民との協議を経て、昭和40年4月から2年間の工期での完成を目標とする改修工事計画を、新聞紙上に公表しました。

8.安井氏の仮処分申請

 この改修工事計画が公表されたとき、安井氏は前記の確認請求の訴訟を提起したばかりでしたが、工事の公表を受け、重ねて大阪地裁に道頓堀川の埋立その他現状を変更する工事の禁止、売買、譲渡、賃貸、地上権の設定その他の処分禁止を求める仮処分を申請しました。これは「係争物に関する仮処分」といわれるもので、確認訴訟で将来仮に勝訴したとしても、それまでの間に、大阪市の河川改修工事で埋立土地の売却等が行われれば、安井氏の権利行使ができなくなり、判決後の権利実現のため現状を保全する必要があるという趣旨で行われました。
 大阪地裁はこの仮処分申請事件で口頭弁論を開いたうえ、安井氏側と国・大阪府・大阪市側の双方から提出される古文書類等、疎明資料の証拠調べを経て、昭和41年2月11日、仮処分申請を却下する判決を言い渡しました。
 仮処分等の保全処分事件では、申請人は民事訴訟を起こす原告がその訴えで主張する権利の存在を確かに判断させる証拠資料を提出しなければなりませんが、安井氏側の資料には、道頓が秀吉から拝領したという土地の正確な位置範囲等を具体的にできる資料は提出されていませんでした。道頓堀川敷地がその拝領地に含まれているかどうかは必ずしも明確ではありません。また、明治より前は現在のような近代的土地所有権制度は確立していなかったので、豊臣時代に土地を拝領したとしても、水流敷の土地がのちのちまで拝領地として存続し得たかどうかは疑問です。つまり、安井氏の主張が認められるためには、明治時代に近代的土地所有権制度が確立した際、当時の安井九兵衛(道朴から数えて9代目の人物)が道頓堀川敷地の近代的土地所有権を取得したことが認められなければなりません。
 明治時代の旧土地台帳及び不動産登記簿によると、道頓堀川の両岸、並びに川の外側の官有道路の外側に隣接する土地の全部について、最初に記載された各所有名義人は安井氏の先々代が長堀橋筋に一筆の土地所有名義人であるにとどまり、他はすべて安井氏以外の人々でしたので、少なくとも明治の初年には、安井氏の先祖は前記一筆の土地以外地所を所持していなかったことは明らかです。その他、いくつかの関連事実を認定し、安井氏が明治初期、近代的所有権に移行すべき道頓堀川敷地に対する私的な支配権を有していたと認めるに足る疎明書面はない、と結論付けられました。この仮処分判決は言い渡し後、不服申し立てなく確定しました。

9.道頓堀川訴訟の本案判決

 昭和51年10月19日、大阪地裁は安井氏の請求に対し、「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を言い渡し、安井氏側の請求を退け、この判決はその後確定しました。

10.本案判決の要約

 判例時報には判決が公開されています。判決文は長文で、一般の理解には必ずしも必要でない主張等を摘示している部分も含まれていますので、ここでは判決のうち、結論を導くに至る「理由」部分の引用に留め、さらに理由部分の目次を表示します。

目次の「第一」
目次の「第二」
原告らの家系、相続関係について。
本件河川敷に対する原告らの所有権についての部分の事実認定や判断について。
  @ 初代安井九兵衛が豊臣、江戸時代、道頓堀川敷地に所持権を取得していたから、という主張について。
  A 豊臣、江戸時代の土地制度と近代的土地所有権制度の成立過程。
  B 道頓の城南の地の拝領事実について。
  C 道頓堀川の開さく工事と川敷に対する所持権について。
  D 道頓堀川の管理、支配の事実関係について。
  E 以上検討の結果、豊臣、江戸時代に原告らの先祖安井家が道頓堀川河川敷の所持権を取得した事実、及び道頓堀川に対する所持権行使等の強い支配を行っていた事実が認められるかどうか。
目次の「第三」 結論部分。

となっています。
 「第一」では、証拠によれば、原告らが安井道朴(初代安井九兵衛)の12 代目の子孫である安井氏の相続人であることが認められました。(提起した安井氏は仮処分判決後に死亡し、妻子ら3名が承継していました。)
 「第二」では、原告らの先祖の道頓堀川河川敷の所持権取得原因事実、およ び道頓堀川に対する所持権等の行使事実は、いずれも認められませんでした。結局、この河川敷は前述の明治7年の太政官布告第120号による官民区分の実施段階において、民有地と認めるべき実質を有しておらず、官有地第三種に該当する土地として、国有に確定したものと解するのが相当である、と判断されました。
 そして最後の「第三」ですが、「以上要するに、道頓堀川は原告らの先祖である初代安井九兵衛道朴らの努力によって開さくされたものであり、今日の道頓堀繁栄の基礎を築いた原告らの先祖の功績はまことに多大である。しかし、このことと本河川敷の所有権の帰属とは別個の問題であり、既に述べたとおり、本件全証拠を詳細に検討してみても、原告らが現在本件河川敷につき所有権を有するものとは、認めることができない」(原文どおり)となっています。

裁判所が下した判決には、法的強制力がありますが、第三者が当事者間の会話を促進し合意を目指す民間型ADRの調停では、合意内容については、法的強制力はありませんが、自主的な話し合いで得られた合意は通常履行されており、登記や地図(公図)に反映させることもできます。第三者には、土地の境界に関する専門家である土地家屋調査士と、法律の専門家である弁護士が、チームを組んで皆さまの紛争解決のお手伝いをさせていただきますので、解決後の手続きも含め、スムーズにはこびます。

11.平成の道頓堀川

 道頓堀には旧幕時代、芝居小屋の設立が許可され、以後歌舞伎、浄瑠璃、からくり等、歓楽街として賑わいました。昭和の初期以降、映画館、寄席、演芸場、遊技場等様々に変遷後、昭和の末期から平成初期にすべて閉鎖されました。 しかし、道頓堀界隈の賑わいはいっこうに変わらず、ビル群の谷間で以前にも増す繁栄を続けています。

道頓堀川
大阪ミナミの観光スポットとして昼も夜も賑わいが絶えません。

このコラムを掲載するにあたり、下記の図書を使用させていただきました。
        「道頓堀川」(道頓堀川訴訟)
        (交通新聞社・平成20年4月30日発行)
        田中 貞和 著(佐賀県弁護士会所属弁護士)

 

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